ブルシット・ジョブ

話題になっていた本。図書館で借りて読んだ。
タイトルが印象的。この本存在を知ってから、頭の中で、Bullshit Job! と聞こえるときがある。

結論から言うとタイトルと概略知るだけで十分。斜め読みした。4000円の価値があるのか。この本が多数の方面に影響を与えているだろう。ブルシットジョブの回避法→ ベーシックインカム
2020年以降の本で、資本主義の限界とか社会主義ベーシックインカムの論調増えた気がする。

例えば
新人世の資本論
ビジネスの未来

コロナで在宅、リモートワークで仕事が見直された、AIで単純作業がなくなっている。分岐点だからこそ流行った本。

以下、Amazonコメントからの引用

どんな本?
世に蔓延る何のためにあるのかわからないクソ仕事(ブルシット・ジョブ)の存在を明らかにし、ブルシット・ジョブに従事する人の苦しみや、なんでそんなものが存在するのかを論じた本。著者のグレーバーは、反グローバル経済の活動家でもある、今勢いのある人類学者だ。この本の後半は人類学的見地から「仕事」そのものを捉えなおす内容になっている。

・「ブルシット・ジョブ」ってなに?
この本の第一章では、まずブルシット・ジョブを定義する。
ブルシット・ジョブとは、「本人でさえ正当化できないくらい完全に無意味・不必要で有害でもある有償の雇用の形態であるが、本人はそうではないと取り繕わなければならないように感じている仕事」である。
ここで、有害な仕事だが本人が自覚的であったり、単に待遇や職場環境が悪いという意味でのクソな仕事は、ブルシット・ジョブには該当しない。
なお、「ブルシット」は、日本ではあまり馴染みはない言葉だが、「でたらめ」、「くだらない」といった「欺瞞」のニュアンスを含む(下品な)スラングだ。この言葉の意味するところを深く論じた本としては、『ウンコな議論(原題はOn Bullshit)』(ハリー・フランクファート)がある。
ブルシット・ジョブは、必要とされてないくせにお給料は良かったりする。ブルシット・ジョブに従事する人は、まさにこの点で苦しむことが多いのだが、これは奇妙な話である。
経済の原則からすれば、働かずにお金がもらえるのは嬉しいことであるはずだ。というか市場原理からすれば、そもそもそんな仕事は生まれないはずだ。
なぜブルシット・ジョブが生まれるのか?そこにはどんな力が働いているのだろうか?

・ブルシット・ジョブの種類
第二章では、ブルシット・ジョブを以下の5つに分類する。
1 フランキー(取り巻き)の仕事
だれかを偉そうに見せるだけの仕事。ドアマンやお飾りのアシスタントなど。
2 グーン(脅し屋)の仕事
他人を操ろうとしたり脅しをかけたりする仕事。ロビイストや企業の顧問弁護士、コールセンターの従業員や、他人を不安にさせた後に商品を売り込むようなマーケターなど。
3 ダクト・テーパー(尻ぬぐい)の仕事
組織に欠陥が存在するために、その欠陥を解決するためだけにある仕事。一部のソフトウェア開発者など、その気になれば簡単なシステムの見直しで解決できる問題を場当たり的に解決するためだけに雇われた人。
4 ボックス・ティッカー(書類穴埋め人)の仕事
ある組織が実際にはやってないことをやってると主張するための書類を作るだけの仕事。誰も読まないプレゼン資料や報告書などの書類を作ることに業務の大半を割かれるオフィスワーカーなど。
5 タスクマスター(ブルシット・ジョブ量産人)の仕事
もっぱら他人へ仕事を振り分けるだけの仕事。また、ブルシットな業務をつくったり、ブルシット・ジョブを監督する仕事。一部の中間管理職など。

・ブルシット・ジョブをしている人の苦しみ
第三章、第四章では、ブルシット・ジョブによる精神的暴力について考察する。
例えば、意味のない仕事は、その仕事に従事する人を惨めな気持ちにさせるだけでなく、時には脳に損傷を起こすほどのダメージを与えるのだという。
人は、自分の行動が何かに影響を与えて結果が得られるという広い意味での「仕事」に根源的な悦びを感じるように出来ている。
ブルシット・ジョブは、人からその喜びを取り上げる精神的暴力だと言える。

・なんでブルシット・ジョブは増えている?
第五章、第六章では、近年ブルシット・ジョブが増えている理由や、なぜこの問題が放置されているかについて考察する。
これには、個人的な次元、社会的・経済的な次元、文化的・政治的な次元の異なる次元の理由がある。
例えば、以下の理由が挙げられる。
近年の金融資本の増大に伴い、金融や情報関連の(ブルシット・ジョブに発展しやすい)仕事が増加したこと。
また、近年において、「雇用創出」は良いものとされており、無駄な仕事であっても雇用を減らすような大胆な政策を選択しにくいこと。
また、宗教・道徳的な観点でも、働くことはそれ自体が良い目的とされ、怠けたりサボることは倫理にもとる行為とされている。従って、価値の低い仕事でもないよりはマシであり、ヒマであっても大っぴらにそれを明らかにすることは良くないという感覚が存在すること。

・やりがい搾取とブルシット・ジョブの密接な関係
第六章では、特に仕事の「価値」に注目している。
社会的価値の低いブルシット・ジョブが高給であったりする一方、社会的価値の高いエッセンシャルワーカーの給料が低いという問題がある。奇妙なことに、労働の社会的価値が高まるほどその仕事の経済的価値が下がっているようだ。
その考えられる理由の一つとして、世間にはどこか、教師などの社会的価値が高く尊い仕事は、お金目当ての人間が行うのはふさわしくないと考える風潮がある。これは言い換えれば、社会的価値の高い仕事に就き、社会に便益を与えていることを自覚し喜びを感じている人は、より多くの報酬を期待する権利はないということだ。そして、反対に自分の仕事は有害で無意味だという認識に苛まれている人は、まさにこの理由によって、より多くの報酬を受け取ってもよいという感覚も存在しているのだという。
この説が正しいとすると、「やりがい搾取」と「ブルシット・ジョブ」とは、コインの裏表の関係と言える。

・ブルシット・ジョブの政治的影響
最終章である第七章では、現代の労働状況のもつ政治的合意について、また、それを脱出する一つの方法について考察する。
ブルシット・ジョブの存在は、仕事に意味を求める人間の性質にも、合理性を追求する経済の原則にも反している。つまるところ、ブルシット・ジョブの存在を許す現代の労働状況がこのようなかたちになっているのは、政治的な力なのだ。
また、この本では、あまり政策的な提言は好まないというものの、この本で論じてきたジレンマを終結させる構想の一案を示している。
それはベーシックインカムだ。仕事と生活とを切り離すことができれば、ブルシット・ジョブから始まるこの本で論じてきた問題を終わらせることができるという。

・まとめ
この本は、現代の資本主義社会において、あるわけないという思い込み故に、(薄々気付いている人はいたものの)これまでほとんど言われなかった「ブルシット・ジョブ」というものを正面切って論じたものだ。
人類学者である著者の手にかかれば、僕たちが空気のように当たり前に感じている民主主義・資本主義社会が、まるで奇妙な慣習にとらわれた未開の部族のように描かれる。『負債論』も、そのような手法で「負債」というものを現代の世界から離れて捉えなおした刺激的な本だった。
例えば、機械の発達が肉体労働者の不利益になったように、AIの発達で情報部門の仕事が現象するかもしれないという話は最近よく聞く。また、コロナ以後、リモートワークが進んで、仕事をしていない管理職が浮き彫りになった話もよく聞く。するとブルシット・ジョブなんてものは、これから消えるのかもしれないとも思われる。
確かにある程度はそうなるのかもしれない。でも、この本を読めば、話はそんなに単純ではなく、「とにかく雇用を守る」というブルシット・ジョブの存在を補強する強力な政治的な力も存在することが分かる。
また、今の政策を見ても、雇用を守るために助成金は多く支払われているけど、看護師や介護士などのエッセンシャルワーカーはヒーローとして奉れているだけだ。これは、この本でいう「社会的価値の高いエッセンシャルワーカーの経済的不平等」の議論に当てはまる。
このように、読み物としても面白いだけではく、今後の仕事というものを考えるにあたり話を発展させることのできるネタを多く含んだ本だった。

ここまで長い本にする必要があったのか

無駄で無意味でときとして有害な、いわゆる「クソどうでもいい仕事」が増えているという世界的な傾向について問題提起している本。期せずしてコロナ禍でリモートワークの導入が一気にすすみ、「なくてもいい職種」「いなくてもいいマネージャー」「やらなくていい仕事」が思わぬかたちであぶりだされることになった。PCのキーボードを叩く、会議室や応接室に出たり入ったりする、プリンターやコピー機の番をする、といったことで存在感を出していた人たちは在宅勤務となって何をやっているのだろう。一方で、わたしたちの生活全般がエッセンシャル・ワーカーといわれる人たちなしには成り立たないということが社会全体の認識として定着した。そうい意味で、コロナ禍はブルシット・ジョブとエッセンシャル・ジョブを顕在化するひとつの契機になったといえるだろう。ただ、それらが見える化されたからといって、ブルシット・ジョブが減るとか、エッセンシャル・ワーカーの賃金が上がるといった話にはならない。なぜなら、ブルシット・ジョブが生み出された原因は経済学的要因や人間の本性とは関係なく、政治的なものであるから、というのが著者の結論である。

ブルシット・ジョブの創出の旗振り役ともなっているのが政府である。どの国の政府でも失業率を低く保つことは至上命題だ。2020年の大統領選で米民主党は診療報酬支払いを従来の民間保険会社に代わって政府が担う単一支払者制度への移行を訴えている。オバマ大統領は単一支払者制度には否定的だった(現在のアメリカの制度では政府は高齢者や低所得者の部分のみを担い、それ以外は民間医療保険が中心的役割を果たしている)。その理由は「保険やペーパーワークの非効率が改善されるから」である。間違いではない。効率的になるからやらない、という発言している。「雇用創出」というのはそれほど政府にとっては死活問題なのだ。

考えてみればじつにおかしなことだ。自分が生きてきた半世紀ほどを振り返ってみるだけで家事も含めた仕事全般は格段に「楽」になり、あらゆる作業にかかる手間と時間は短縮された。その多くはデジタル技術に追うところが大きいわけだが、そのおかげで早く帰れるようになったとか、週休4日になったという話はいっこうに聞かない。そのぶん仕事の量を増やしていると仮定するとさらにおかしなことがわかる。仕事が効率化されて生まれた時間に別の仕事を入れれば売り上げが増えて国全体では経済成長率が高まるはずなのに、そうはなっていない。それは「日本人の生産性が低いから」といわれるが、人間の生産性がかわらなくても技術や機械によって生産性がおのずと高まるわけだから、わざわざ生産性を落とすための「努力」をしない限りここまで生産性は落ちないだろう。その「努力」にあたるところがブルシット・ジョブの創出と維持なのだ。

ブルシット・ジョブが増えているということと同等かそれ以上に問題なのは、ブルシット・ジョブに対する報酬がエッセンシャル・ジョブに対する報酬を往々にして上回るという点だ。その背景には金銭的な尺度で測れる「価値」と測れない(がゆえに価値がある)「諸価値」の対立があると著者は指摘する。つまりは主にエッセンシャルワーカーが担っている「他者に対するケアリング」の仕事の多くは「諸価値」の領域に属するものであり、それを「価値」の領域に取り込む過程で倫理的ねじれ現象がおきる。「世界に積極的な貢献」をしているという実感を得ること自体が「報酬」であり、そうした実感を感じられず、それどころか自分の仕事が無益で有害ですらあるという認識にさいなまれている人はそれゆえにより高い報酬を受け取ってしかるべきだという感覚が存在しているという。無意味なオフィスワークの報酬が高いのは精神的苦痛に対する代償というわけだ。

その自己犠牲的な報酬観に道徳的裏付けを与えることの最大の提唱者としてトマス・カーライルの名を挙げている。カーライルは、「もし仕事が高貴なのであれば、その高貴な労働には報酬を与えるべきではない。なぜなら、かような絶対的な価値に値段をつけるなど実に低俗ではないか」という考えの持ち主だった。産業革命後の中産階級に支持されたというこの考え方は一見対極にみえるジェレミーベンサムの「人間の快楽は正確に数量化でき」るという元祖「効用」理論を補完してきたと著者は指摘している。数量化できない快楽、つまりやりがいのようなものを人が求めることに対しての説明が、無報酬の自己犠牲受容論につながったということである。

このあたりは話としては面白いが、たんなる仮説にすぎない。ブルシット・ジョブを顕在化させたことは著者の功績だが、あまりにいろいろなことを言おうとしすぎていて話が散らかっており理論には程遠い。メディア受けするのはブルシット・ジョブの五類型(取り巻き、脅し屋、尻拭い、書類穴埋め人、タスクマスター)のところまで。それ以降の思想史、経済史的的な側面からの論考は、仮説をぶちまけたまま回収していないのですっきりしなかった。しかも最後の政策提言という名のオチがユニバーサル・ベーシック・インカムというのはあまりにありがちな話でがっかり。デジタル時代のケインズ有効需要創出一環としてブルシット・ジョブが増殖しており、それを解決するにはUBIしかないと言う主張はとくに新しくはない。ブルシット・ジョブが増えているという現象よりも、その多くでエッセンシャル・ジョブよりも報酬が高いということのほうが、問題の本質ではないかと思う。

この本にもあったが、産業が金融化したということは大きい。資本家は工場ではなく金融機関に投資することで最大の利益を得るようになったがゆえに金融業界の報酬は高まった。その報酬を維持していくための運動の一環としてブルシット・ジョブが生まれたのではないか。ブルシット・ジョブのほとんどは、こうした「運動」の副産物なのではないか。さらに思うに、ブルシット・ジョブを苦痛に思う人は実はそれほど多くはなく、実際大したこともしないでそれなりのお給料をもらえるのはラッキーと思っている人が大半なのではないだろうか。やはりそっちのほうが人間の本質ではないかと思うのだが。