ビジネスの未来 -エコノミーにヒューマニティを取り戻す 山口周

現代社会はどこに向かうのか」を読んでいたらすんなり入ってくる本。

基本的に、その本のコンセプト、思想を引き継いで、データや他の著作から肉付けする内容になっている。サピエンス全史で述べられるような目的を見失った人間に、あるべき社会の姿を提示しようとする姿勢が評価できる。

内容を簡単にまとめると

・ビジネスはその歴史的使命を終えつつある

・この転換を前向きに乗り越えるには、経済成長の終わり、「終焉」を受容する必要がある。そして、どのような社会を作りたいのか? という構想があるのが重要。それが無いと、成長や変化率、GDPといった指標にとらわれることになる。

・目指したい社会は、 エコノミーおにヒューマニティーを取り戻すこと。人間性に根差した衝動。インストロメンタルではなく、永遠に循環する今を豊かにみずみずしく生ききる、自己充足的=コンサマトリーな思考・行動様式への転換。経済的ではなく社会的イノベーションの活性化。その実現のために、ベーシックインカムの導入、ソーシャルバランススコアカードの表の導入。教育制度。税を高負担高福祉型にする。

・社会に贈与の仕組みを導入する。労働そのものが愉快であり、精神的報酬である。(Linux開発)100年以上まえに、マルクスは食うために働く労働からの脱却を示唆していた。

・生きててよかったという至高体験を味わえるかどうか。それは、人間性に根差した衝動、歌いたい、踊りたい、描き、創造したい、草原を疾走したい、木漏れ日を浴びたい、美しい海に飛び込みたい、弱者に手を差し伸べたい、懐かしい人と酒を飲みかわしたい、美しい子供を抱きしめたい、という衝動。今、この習慣に感じられる愉悦、官能の利得で行為のコストが回収される=コンサマトリー。コンサマトリー=瞬間的、手段自体が利得、手段と目的が融合、利得が内在的、直感的。

・コンサマトリーはゾーン。①過程のすべての段階に明確な課題がある。②行動に対する即座のフィードバックがある③挑戦と能力が釣り合っている ④行為と意識が融合する⑤気を散らすものが意識から締め出される ⑥失敗の不安が意識から消える⑦自意識が喪失する⑧時間間隔が無くなる 9活動と目的が一致する

・そのために、幸福感受性を摩耗させないように

 ⇒自分が昔、コーチングをやった時に自分の感情、やりたいことに気づいたのに似ている。

・コンサマトリーのためにどうすればいいか。とにかく何でやってみる。夢中になれることを探す。浪費や無駄が人生には必要。真に応援したいものにお金を使う。消費は贈与や応援に近い存在へ。バリューチェーンからバリューサイクルへ。消費者の顔が見える。責任ある消費。小さく、近く、美しく。地域での循環。地産地消

 

・目指すべき世界。真にやりたいことを見つけ、取り組む、真にお上因した芋の・ことにお金を払う、そのためにユニバーサルベーシックインカム。欧州型社会福祉主義を目指せ。政治への積極的参画。革命も、いまここにいる私から始まる。

・今の資本主義、平等も過去の誰かが活動した結果。私たちはバトンを受け取っている。それを次の世代につながないといけない。なので、あなたも資本主義社会のハッカーの自負を持って、新しい世界の建設に携わって欲しい。

・歴史を変えるのは小さなリーダーシップ。バタフライ効果。庁の羽ばたきが、遠隔地におけるハリケーンの要因になり得る。システムに問題を置き換えることは間違っている。重要なのは私たちの思考・行動様式をどう変えるのか。衝動にシステムをリ・ハックさせる。ビジネスアズアート。アーティストが衝動に書かれて作品を制作するように私たちも衝動に駆られて各自の活動を行う。

・物質的な豊かさは既に達成されている。先進国、日本はすでに 豊かで国民の幸福度も高い。高度成長期から比べても高い。そして先進国の成長率は軒並み停滞している。

・GDPはアメリカが考案し、アメリカに有利な指標。

ロジスティクス曲線に注意。人間の成長が停滞するならばいいが、そのまま絶滅する種もある。

ケインズ ニーズには2つある。他人に関係なく必要な絶対的ニーズ、他人に優越するために必要な相対的ニーズ。相対的ニーズには限りが無い。

 

岸田内閣の新しい資本主義は株主資本主義からの脱却、深い意図もあるのかもしれないが、高税率にしてもそれが国民にいきわたるかはわからない。まず国会議員の数・債務の削減、行政のスリム化から始めようよ。中間搾取が肥大化すれば、いくら国民からの負担を大きくしても国民にいきわたらない。株価を下げることが資本主義からの脱却と勘違いしないよう。

 

サピエンス全史

上・下巻あり、回りくどい表現や言い回しが多々あり、読みやすいとは言えない本。

にもかかわらず、一気に読めるのはその脱線ゆえの面白さや著者の博識から来る小話や史観によるものだろう。ただし、歴史や科学的な観点での正確性は疑問。そのため、書評でもフィクションとして読むべき、という声が多い。それでも余りある魅力の著書である。

 

個人的には、上巻の最初の方が面白かった。
以下のようなくだり。

ホモサピエンスネアンデルタール人などと異なったのは「架空」の話を言語を使ってできるようになったこと。そのフィクションで人間はまとまって行動することが可能である。宗教や国家というコミュニティを形成することが可能である。100名以上協力できるようになったこと、これがその他の動物との進化を分けた。

だから、脳という狩猟には不必要な器官をもっている。
この認知革命が起こったこと、がその後のサピエンスの進化を決定的に分けた。
サピエンスは他の動物、生物や人類に対する征圧的な活動、侵略という行動が目立った。

農耕革命。

狩猟から農耕に移行した人間は必ずしも幸福になったわけではない。病気は蔓延したし、争いが起こるようになった。そして自然や気候と戦う気の遠くなるような苦労。

その後、人間は帝国を作り、科学を発達させた。そしてカースト、人種差別を始めた。

 

その他、昆虫の羽は光合成の光を集めるために進化したものが飛べるようになっただとか、という小話も面白かった。

この本の魅力は、マクロ歴史学というが、なんといっても俯瞰的に人類史を見ている点だと思う。他の歴史書に追従を許さないマクロな視座。自分が幽体離脱している感じになる。そのため、心は幸福に、他の国や人との争いを超越した、俯瞰した気持ちになれる。そこが著者の狙いなのかもしれない。このような本を読んで考えるひとが増えれば世界はもっと平和になるのに。そして、俯瞰した目で今後の人類の行く末やビジネスを考えるうえでも有益だと思った。

実際、著者は、人間はいま、環境問題に対してグローバルな統一、帝国として立ち向かおうというさなかだという。

文明の発達と人間の幸福とは関係がないということ。今の人間が過去の人間に比べて幸福だという保証はどこにあるのか。

(抜粋)

私たちが直面している真の疑問は「私たちは何になりたいのか」ではなく、「何を望みたいのか」かもしれない。ホモ・サピエンスは神になった。自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?

 

人間が力を持つに至ったこと、その力をどう生かすか、ということをこのような本を読んで問いかけながら日々を一日一日過ごしていきたい。

 

現代社会はどこに向かうのかー高原の見晴らしを切り開くということ

いつ買ったのか、本棚に並んでいた。

 

「ビジネスの未来」山口周著 でも触れられていて、高原のコンセプトのモチーフになっていた。近代社会、資本主義の限界と「成長」をやめた生き方について、その後の著作に影響を与えた本だと思う。

 

・世代間の価値観、ギャップはすくなくなっている(団塊団塊Jr、新人類、新人類Jr)→一方、Z世代はデジタルネイティブで違いがあるように思うのは、価値観というより生活様式の部分か?

 

生物学者がロジスティック曲線と呼ぶ人口増加傾向。人類はすでに減少傾向に入っている。

 

・高度に産業化された社会は、これ以上の物質的な成長を不要なものとし、永続する幸福な安定平衡の高原(プラトー)として、近代の後の見晴らしを切り開くこと

近代の思考から見ると、成長完了後の世界は、停滞した魅力の少ない社会のように感覚されるかもしれないが、経済競争の強迫から解放された人類は、アートと、文学と、思想と、科学の限りなく自由な創造と、友情と、愛と、子供たちとの交歓と、自然との交感の限りなく豊饒な感動とを追求し、享受しつづけるだろう。

天国や極楽は未来のための現在ではなく、永続する現在の享受であった。天国に経済成長はない。

 

成長の終わり、脱資本主義、高原、精神的な幸せの追求というのは素晴らしいものだと思うけど、欧米をはじめとする諸国は資本主義の成長をやめようとしているようには見えない。グリーントランスフォーメーションを見かけに資本主義に修正を加えるか、さらなる成長も陰ながら志向しているように見える。そして欧州諸国の幸福度は上がりつつある。日本も脱成長の幸福度を求めるべきステージなのだと思う。

岸田政権のいう新しい資本主義も、この本のような考え方がバックグラウンドにあるのかもしれないが、悪しき追従のように思える。単に、安倍政権との違いを出したいだけか?欧米は成長志向や資本主義をやめようとは思っていない(おそらく)。

 

世界を変える2つの方法

①卵を内側から破る

ベルリンの壁がそうだったように、自由と魅力の力で内側から解放されないといけない

②連鎖反応

一人が1年をかけて共感する友人を1人作る

世界に連鎖して100億人に革命を起こすのに100年かかる

「一華開いて世界起こる。その1つ花が開くときにも、1つの細胞がまず充実すると、他の一つずつの細胞が触発されて充実する、という充実の連鎖反応によって、全体が大きく開くのだという。今ここに1つの花が開くとき、すでに世界は新しい。」

ブルシット・ジョブ

話題になっていた本。図書館で借りて読んだ。
タイトルが印象的。この本存在を知ってから、頭の中で、Bullshit Job! と聞こえるときがある。

結論から言うとタイトルと概略知るだけで十分。斜め読みした。4000円の価値があるのか。この本が多数の方面に影響を与えているだろう。ブルシットジョブの回避法→ ベーシックインカム
2020年以降の本で、資本主義の限界とか社会主義ベーシックインカムの論調増えた気がする。

例えば
新人世の資本論
ビジネスの未来

コロナで在宅、リモートワークで仕事が見直された、AIで単純作業がなくなっている。分岐点だからこそ流行った本。

以下、Amazonコメントからの引用

どんな本?
世に蔓延る何のためにあるのかわからないクソ仕事(ブルシット・ジョブ)の存在を明らかにし、ブルシット・ジョブに従事する人の苦しみや、なんでそんなものが存在するのかを論じた本。著者のグレーバーは、反グローバル経済の活動家でもある、今勢いのある人類学者だ。この本の後半は人類学的見地から「仕事」そのものを捉えなおす内容になっている。

・「ブルシット・ジョブ」ってなに?
この本の第一章では、まずブルシット・ジョブを定義する。
ブルシット・ジョブとは、「本人でさえ正当化できないくらい完全に無意味・不必要で有害でもある有償の雇用の形態であるが、本人はそうではないと取り繕わなければならないように感じている仕事」である。
ここで、有害な仕事だが本人が自覚的であったり、単に待遇や職場環境が悪いという意味でのクソな仕事は、ブルシット・ジョブには該当しない。
なお、「ブルシット」は、日本ではあまり馴染みはない言葉だが、「でたらめ」、「くだらない」といった「欺瞞」のニュアンスを含む(下品な)スラングだ。この言葉の意味するところを深く論じた本としては、『ウンコな議論(原題はOn Bullshit)』(ハリー・フランクファート)がある。
ブルシット・ジョブは、必要とされてないくせにお給料は良かったりする。ブルシット・ジョブに従事する人は、まさにこの点で苦しむことが多いのだが、これは奇妙な話である。
経済の原則からすれば、働かずにお金がもらえるのは嬉しいことであるはずだ。というか市場原理からすれば、そもそもそんな仕事は生まれないはずだ。
なぜブルシット・ジョブが生まれるのか?そこにはどんな力が働いているのだろうか?

・ブルシット・ジョブの種類
第二章では、ブルシット・ジョブを以下の5つに分類する。
1 フランキー(取り巻き)の仕事
だれかを偉そうに見せるだけの仕事。ドアマンやお飾りのアシスタントなど。
2 グーン(脅し屋)の仕事
他人を操ろうとしたり脅しをかけたりする仕事。ロビイストや企業の顧問弁護士、コールセンターの従業員や、他人を不安にさせた後に商品を売り込むようなマーケターなど。
3 ダクト・テーパー(尻ぬぐい)の仕事
組織に欠陥が存在するために、その欠陥を解決するためだけにある仕事。一部のソフトウェア開発者など、その気になれば簡単なシステムの見直しで解決できる問題を場当たり的に解決するためだけに雇われた人。
4 ボックス・ティッカー(書類穴埋め人)の仕事
ある組織が実際にはやってないことをやってると主張するための書類を作るだけの仕事。誰も読まないプレゼン資料や報告書などの書類を作ることに業務の大半を割かれるオフィスワーカーなど。
5 タスクマスター(ブルシット・ジョブ量産人)の仕事
もっぱら他人へ仕事を振り分けるだけの仕事。また、ブルシットな業務をつくったり、ブルシット・ジョブを監督する仕事。一部の中間管理職など。

・ブルシット・ジョブをしている人の苦しみ
第三章、第四章では、ブルシット・ジョブによる精神的暴力について考察する。
例えば、意味のない仕事は、その仕事に従事する人を惨めな気持ちにさせるだけでなく、時には脳に損傷を起こすほどのダメージを与えるのだという。
人は、自分の行動が何かに影響を与えて結果が得られるという広い意味での「仕事」に根源的な悦びを感じるように出来ている。
ブルシット・ジョブは、人からその喜びを取り上げる精神的暴力だと言える。

・なんでブルシット・ジョブは増えている?
第五章、第六章では、近年ブルシット・ジョブが増えている理由や、なぜこの問題が放置されているかについて考察する。
これには、個人的な次元、社会的・経済的な次元、文化的・政治的な次元の異なる次元の理由がある。
例えば、以下の理由が挙げられる。
近年の金融資本の増大に伴い、金融や情報関連の(ブルシット・ジョブに発展しやすい)仕事が増加したこと。
また、近年において、「雇用創出」は良いものとされており、無駄な仕事であっても雇用を減らすような大胆な政策を選択しにくいこと。
また、宗教・道徳的な観点でも、働くことはそれ自体が良い目的とされ、怠けたりサボることは倫理にもとる行為とされている。従って、価値の低い仕事でもないよりはマシであり、ヒマであっても大っぴらにそれを明らかにすることは良くないという感覚が存在すること。

・やりがい搾取とブルシット・ジョブの密接な関係
第六章では、特に仕事の「価値」に注目している。
社会的価値の低いブルシット・ジョブが高給であったりする一方、社会的価値の高いエッセンシャルワーカーの給料が低いという問題がある。奇妙なことに、労働の社会的価値が高まるほどその仕事の経済的価値が下がっているようだ。
その考えられる理由の一つとして、世間にはどこか、教師などの社会的価値が高く尊い仕事は、お金目当ての人間が行うのはふさわしくないと考える風潮がある。これは言い換えれば、社会的価値の高い仕事に就き、社会に便益を与えていることを自覚し喜びを感じている人は、より多くの報酬を期待する権利はないということだ。そして、反対に自分の仕事は有害で無意味だという認識に苛まれている人は、まさにこの理由によって、より多くの報酬を受け取ってもよいという感覚も存在しているのだという。
この説が正しいとすると、「やりがい搾取」と「ブルシット・ジョブ」とは、コインの裏表の関係と言える。

・ブルシット・ジョブの政治的影響
最終章である第七章では、現代の労働状況のもつ政治的合意について、また、それを脱出する一つの方法について考察する。
ブルシット・ジョブの存在は、仕事に意味を求める人間の性質にも、合理性を追求する経済の原則にも反している。つまるところ、ブルシット・ジョブの存在を許す現代の労働状況がこのようなかたちになっているのは、政治的な力なのだ。
また、この本では、あまり政策的な提言は好まないというものの、この本で論じてきたジレンマを終結させる構想の一案を示している。
それはベーシックインカムだ。仕事と生活とを切り離すことができれば、ブルシット・ジョブから始まるこの本で論じてきた問題を終わらせることができるという。

・まとめ
この本は、現代の資本主義社会において、あるわけないという思い込み故に、(薄々気付いている人はいたものの)これまでほとんど言われなかった「ブルシット・ジョブ」というものを正面切って論じたものだ。
人類学者である著者の手にかかれば、僕たちが空気のように当たり前に感じている民主主義・資本主義社会が、まるで奇妙な慣習にとらわれた未開の部族のように描かれる。『負債論』も、そのような手法で「負債」というものを現代の世界から離れて捉えなおした刺激的な本だった。
例えば、機械の発達が肉体労働者の不利益になったように、AIの発達で情報部門の仕事が現象するかもしれないという話は最近よく聞く。また、コロナ以後、リモートワークが進んで、仕事をしていない管理職が浮き彫りになった話もよく聞く。するとブルシット・ジョブなんてものは、これから消えるのかもしれないとも思われる。
確かにある程度はそうなるのかもしれない。でも、この本を読めば、話はそんなに単純ではなく、「とにかく雇用を守る」というブルシット・ジョブの存在を補強する強力な政治的な力も存在することが分かる。
また、今の政策を見ても、雇用を守るために助成金は多く支払われているけど、看護師や介護士などのエッセンシャルワーカーはヒーローとして奉れているだけだ。これは、この本でいう「社会的価値の高いエッセンシャルワーカーの経済的不平等」の議論に当てはまる。
このように、読み物としても面白いだけではく、今後の仕事というものを考えるにあたり話を発展させることのできるネタを多く含んだ本だった。

ここまで長い本にする必要があったのか

無駄で無意味でときとして有害な、いわゆる「クソどうでもいい仕事」が増えているという世界的な傾向について問題提起している本。期せずしてコロナ禍でリモートワークの導入が一気にすすみ、「なくてもいい職種」「いなくてもいいマネージャー」「やらなくていい仕事」が思わぬかたちであぶりだされることになった。PCのキーボードを叩く、会議室や応接室に出たり入ったりする、プリンターやコピー機の番をする、といったことで存在感を出していた人たちは在宅勤務となって何をやっているのだろう。一方で、わたしたちの生活全般がエッセンシャル・ワーカーといわれる人たちなしには成り立たないということが社会全体の認識として定着した。そうい意味で、コロナ禍はブルシット・ジョブとエッセンシャル・ジョブを顕在化するひとつの契機になったといえるだろう。ただ、それらが見える化されたからといって、ブルシット・ジョブが減るとか、エッセンシャル・ワーカーの賃金が上がるといった話にはならない。なぜなら、ブルシット・ジョブが生み出された原因は経済学的要因や人間の本性とは関係なく、政治的なものであるから、というのが著者の結論である。

ブルシット・ジョブの創出の旗振り役ともなっているのが政府である。どの国の政府でも失業率を低く保つことは至上命題だ。2020年の大統領選で米民主党は診療報酬支払いを従来の民間保険会社に代わって政府が担う単一支払者制度への移行を訴えている。オバマ大統領は単一支払者制度には否定的だった(現在のアメリカの制度では政府は高齢者や低所得者の部分のみを担い、それ以外は民間医療保険が中心的役割を果たしている)。その理由は「保険やペーパーワークの非効率が改善されるから」である。間違いではない。効率的になるからやらない、という発言している。「雇用創出」というのはそれほど政府にとっては死活問題なのだ。

考えてみればじつにおかしなことだ。自分が生きてきた半世紀ほどを振り返ってみるだけで家事も含めた仕事全般は格段に「楽」になり、あらゆる作業にかかる手間と時間は短縮された。その多くはデジタル技術に追うところが大きいわけだが、そのおかげで早く帰れるようになったとか、週休4日になったという話はいっこうに聞かない。そのぶん仕事の量を増やしていると仮定するとさらにおかしなことがわかる。仕事が効率化されて生まれた時間に別の仕事を入れれば売り上げが増えて国全体では経済成長率が高まるはずなのに、そうはなっていない。それは「日本人の生産性が低いから」といわれるが、人間の生産性がかわらなくても技術や機械によって生産性がおのずと高まるわけだから、わざわざ生産性を落とすための「努力」をしない限りここまで生産性は落ちないだろう。その「努力」にあたるところがブルシット・ジョブの創出と維持なのだ。

ブルシット・ジョブが増えているということと同等かそれ以上に問題なのは、ブルシット・ジョブに対する報酬がエッセンシャル・ジョブに対する報酬を往々にして上回るという点だ。その背景には金銭的な尺度で測れる「価値」と測れない(がゆえに価値がある)「諸価値」の対立があると著者は指摘する。つまりは主にエッセンシャルワーカーが担っている「他者に対するケアリング」の仕事の多くは「諸価値」の領域に属するものであり、それを「価値」の領域に取り込む過程で倫理的ねじれ現象がおきる。「世界に積極的な貢献」をしているという実感を得ること自体が「報酬」であり、そうした実感を感じられず、それどころか自分の仕事が無益で有害ですらあるという認識にさいなまれている人はそれゆえにより高い報酬を受け取ってしかるべきだという感覚が存在しているという。無意味なオフィスワークの報酬が高いのは精神的苦痛に対する代償というわけだ。

その自己犠牲的な報酬観に道徳的裏付けを与えることの最大の提唱者としてトマス・カーライルの名を挙げている。カーライルは、「もし仕事が高貴なのであれば、その高貴な労働には報酬を与えるべきではない。なぜなら、かような絶対的な価値に値段をつけるなど実に低俗ではないか」という考えの持ち主だった。産業革命後の中産階級に支持されたというこの考え方は一見対極にみえるジェレミーベンサムの「人間の快楽は正確に数量化でき」るという元祖「効用」理論を補完してきたと著者は指摘している。数量化できない快楽、つまりやりがいのようなものを人が求めることに対しての説明が、無報酬の自己犠牲受容論につながったということである。

このあたりは話としては面白いが、たんなる仮説にすぎない。ブルシット・ジョブを顕在化させたことは著者の功績だが、あまりにいろいろなことを言おうとしすぎていて話が散らかっており理論には程遠い。メディア受けするのはブルシット・ジョブの五類型(取り巻き、脅し屋、尻拭い、書類穴埋め人、タスクマスター)のところまで。それ以降の思想史、経済史的的な側面からの論考は、仮説をぶちまけたまま回収していないのですっきりしなかった。しかも最後の政策提言という名のオチがユニバーサル・ベーシック・インカムというのはあまりにありがちな話でがっかり。デジタル時代のケインズ有効需要創出一環としてブルシット・ジョブが増殖しており、それを解決するにはUBIしかないと言う主張はとくに新しくはない。ブルシット・ジョブが増えているという現象よりも、その多くでエッセンシャル・ジョブよりも報酬が高いということのほうが、問題の本質ではないかと思う。

この本にもあったが、産業が金融化したということは大きい。資本家は工場ではなく金融機関に投資することで最大の利益を得るようになったがゆえに金融業界の報酬は高まった。その報酬を維持していくための運動の一環としてブルシット・ジョブが生まれたのではないか。ブルシット・ジョブのほとんどは、こうした「運動」の副産物なのではないか。さらに思うに、ブルシット・ジョブを苦痛に思う人は実はそれほど多くはなく、実際大したこともしないでそれなりのお給料をもらえるのはラッキーと思っている人が大半なのではないだろうか。やはりそっちのほうが人間の本質ではないかと思うのだが。